「　―　百術不如一清（ひゃくじゅついっせいにしかず）　―　」　橘良基
　あらゆる権謀術策は一つの清廉さに及ばない。　一清　＝　一誠

　その夜もわが家の日風呂は、たった一つの贅沢として、すでに父が入り、大次郎が入ってあがったあとであった。兄は今日は、玉木叔父の許へ出かけて留守なのだ。
　すぐ下の妹の千代は、せっせと台所で食事のあとを片付けている。

　二女の寿（ひさ）が風呂を出て顔をしかめて片足をひきずりながら母のそばへ寄って来た。
「何としてじゃ。跛（びっこ）をひいて」
大次郎が問いかけると、寿は顔をしかめて、
「あかぎれに湯が滲みて」
ちらりと母を見やって言った。
どうやらこの妹も霜のおりだした畑仕事を手伝わされたのに違いない。
「そうか、もう霜がおりだしたか」
大次郎が思わず嘆息を漏らしたとき、針を運びながら、母の口からとぼけた歌がもれて来た。

　　　あかぎれは　恋しき人の　かたみかな
　　　　　　文（踏み）みるたびに　あいた（あ痛）くもある

　台所で千代の笑いがはじけるようにひびいて来た。
「お母さんは、近ごろすっかり歌詠みになられましたぞえ。」
大次郎は笑いもせずに、また澄まして針を運んでいる母をびっくりして見直した。
千代がまた言った。
「この夏、蚊帳（かや）が破れたおりにも歌を詠まれた。

　　　やぶれ蚊帳　ほどめでたき　ものはなし
　　　　　　つる（吊る）とかめ（蚊め）が　舞いさがる

　ホホ・・・ほんとに、おかしげなお母さん」
　大次郎は思わず口でつぶやき直した。
「つるとかめとが舞いさがる・・・」
「そうじゃ。私じゃとて学者の母じゃもん」
　それを聞いたとたんに、ジーンと胸が熱くなり、あとの言葉が続かなかった。
ひどく貧しい。しかしその貧しさに母は少しも負けていない。
いや、負けるどころか、焼け出されて裸で帰ったわが子が、他家のために働いたと聞いたとたんに笑顔になった。（このように健康な、すぐな家庭がここにはあった・・・）

　松陰の人生に挫折の二字がなくなったのは、この下田の海辺で、朝の日の出を見た時からだ。
　彼が、霊夢によって不撓不屈を天地に誓い、二十一回猛士と名乗ったのは、この年の
十一月、長州藩の野山獄に移されてからなのだが、いかなる困難にも断じてたじろぐべきではないとする勇猛心！それこそわが生き甲斐なのだと悟って、ぐっと巨きな大樹に生長していったのは、この絶望の直後であった。
「重之助、一首できたぞ。元気を出せ！」
そして、彼はいままさに水平線に顔を出そうとする朝日に向かって朗々と吟声を張ったのだ。

　　　世の人は　よしあしことも　言わば言え
　　　　　　賊（しず）が誠は　神ぞ知るらん

　言うまでもなく、人間の至誠は必ず神に通ずるものだという彼の信念、彼の哲学の吐露なのである。
　重ねて言おう、彼は、この天地を造ったものを神と見る。したがって、神から天地、天地から祖先、祖先から両親、両親からわが身と伝わった吉田松陰の五尺の体内には、神の霊気、天地の霊気がそのまま宿って生まれていると見るのである。
　言い変えれば、わが身を神の分身、神の末裔と意識するのだ。その分身ゆえ、自然の大法則を誤らず、それに至誠の限りを尽くしてゆけば、必ず神も感応しないはずはないという論理になる。
　こうした信念は、幕末当時の志士たちはむろんのこと、明治時代の日本人の血の中に、ある場合には「天佑神助」として、ある場合には「至誠通神」の行として、脈々と生きて来た民族固有の思想の一つなのだ。しかし今ではその言葉も、内容の伴わない全く空疎な不可解なものに成り果てようとしているのだが・・・

　大和魂を、彼は、神から天地を貫いて、自分の胸に根をおろしている「生命　―」であり、「良心　―」であると見ている。
　天地のこころは言うまでもなく、挫折や中断のない万物化育の愛の披瀝である。
春に草木を芽ぐませ、秋に至ればこれを実らす。どのような人間にも、無心な嬰児期から、誰からも愛される幼年期を経て、少年期、青年期、壮年期、老年期の順序をいささか狂うことなく、平等に与えてゆこうとするあの限りない自然の大愛を指すのだ。
　その天地のこころが人間の胸に根をおろすと、それは「良心　―」となり、良心にみじんも叛くまいとする生き方を「至誠　―」を貫くと呼ぶ。その至誠は大和魂によって支えられた、潔い人間の中の花でなければならない。
本居宣長は、それについて、

　　　敷島の　大和ごころを　人問わば
　　　　　　朝日に匂う　山桜花

　と、詠じた。両者の歌意は決して遠いものではない。朝日を浴びて静かに匂う山桜の花は、見る人の有無にかかわらず、美の極致であって、しかしなお、潔く散る寸前の哀しい姿だ。
　咲くことは散ること・・・それゆえ一層美しく咲かねばならぬとする山桜のこころを、松蔭は、今の自分を鞭打つ勇気におき替えようとして歌っている。

　　　かくすれば　かくなるものと　知りながら
　　　　　己むに己まれぬ　大和魂

　この境地の美しさ、哀しさは、見る人も無く咲き盛る山桜に、朝日の照映を求めているのだとも言える、この場合の朝日は松蔭のよく言う「天地神明」だ。
　鑑賞は天地神明に任せ、これをこそ大和魂の姿と信じて、自分はただ誠を尽くして咲くだけなのだ・・・という覚悟の歌意にほかならない。
　松蔭を、こうした絶対とも言うべき高い境地におしあげていったのは、下田におけるたび重なる蹉跌の果ての絶望であったと思う。
　いや、もう一つ忘れてならないのは、やはり両親の疲れを知らない、あの真摯な生活ぶりと、その中に積み重ねられた愛情の高さと深さであったろう。

真実一路の旅なれど
真実、鈴ふり、思い出す。　　　　　　　〜白秋『巡礼』〜　

　私が何よりも残念に思うことは､自分が自分に生きなかったということです。自分に生きるということは、毛頭利己的に生きるとか、わがままにくらすとかいう意味ではありませぬ。自分にくらすとかいういみではありませぬ。自分に忠実に生きなかったということです。他人から「かみしも」を借りてきたために、あとのことばも、やむなく、「さよう」、「しからば」の紋きり型を踏襲するよりほかになく、ついに自分のことばを話さずにしまったということです。
　あなたは私が義夫に母のことをあかさないゆえをもって、しばしば不満をもらされました。また、大越家と破婚になったとき、根づよくその理由を尋ねられました。いずれも、もっともなことです。しかし、私はある理由から、両方ともあい手にしませんでした。それは、うそを言おうとか、だまそうとかいう考えからではありません。ガラスを美しくするためには、かならず少量のヒソを必要とするごとく、人生においても常に少量のヒソが必要と信じたからです。けれども、今にして思えば、それははたして少量であったか、多量であったか、じつは、それを精密にはかるハカリを持ち合わせていなかったのです。
否、もっと突っこんで申せば、そこにはヒソを加えるべきであるか否かも不明です。私がはじめから、自己に忠実に生きておったならば、おそらくは、ヒソのごときものを加えずとも、なんらの支障もきたさなかったものと思います。最初の踏み出しを誤ったばかりに、ついに私は最後まで、偽りの生活を続けなければならないことになってしまったのです。
しからば、私のあやまった最初のものとは何か。つらつら考えまするに、それは結婚に端を発しているように思われるのであります。お互いに愛がなかったのに結婚したことが、まちがいの源だったのです。お互いということばに、あなたは不審を抱かれるかもしれませぬが、妻のことはしばらく言わず、小生のほうにも、愛というもじは、使用できるかどうか、疑わしいのであります。否、それは全然､愛とは呼べないと思うのであります。最初あなたのご祖父から、妻に関するいっさいの事情をうちあけられたとき、小生はことわろうとすれば、いくらでもことわれる地位におったのです。小生は祖父には恩義を受けておりますが、その恩義に縛られる理由はありません。また、祖父もけっして無理じいをした次第ではないのです。しかるに、その話を聞いたとき、私の心のなかに、ある感情がきざしたのです。それは、だれに聞かれても立派なものだと、私は思っていました。しかしながらそれは、けっして立派なものでもなんでもありません。若さと単純と、ひとりよがりが、そう思わせただけのことであって、じつはそこらの古ぎ屋にぶらさがっている、きわめてありきたりの紋服だったのです。ところが、どういうものか、小生にはその紋つきが、むやみに立派に見えたのです。小生はついにその紋つきを着て祝言の杯をしました。これがそもそも、まちがいの発端だったのです。さりながら、もとより小生は今日において、その愚痴を述べようとするものではありませんぬ。
　男として一度承諾した以上、夫としての責務を果たさねばなりませぬ。また、自分としては、できるだけ果たしてきたつもりであります。ただここで、あなたにくれぐれも申し残したいと思うことは、他人の紋つきで結婚するな、ということです。婚期にいるあなたに、くり返して申し述べたいことは、ただこの一事です。
　小生はじつに単純な人間でした。妻が好いて自分のところへきたものではないことは、承知しないでもありませぬが、こちらがま心をもって対すれば、かならず和合するものという信念を持っていました。しかも、その信念は、みごとに裏切られました。自分があい手を愛すれば、あい手もきっと愛してくれる。人生はかならずしも、そんな簡単なものではありませぬ。昔から合い性ということばがありますが、これは現代においても、もっと取りあげてしかるべきものと、小生は思っております。もちろん、九星だとか、五行だとか、さような迷信は排斥すべきでありますけれども、ふたりの男女が、一生ひとつ家でくらして行く上では、このことは一番大切な問題だと思います。結婚ということは、結局は合い性ということにつきるのでありますまいか。・・・・・・
・・・・・・結婚は断じて、そんなまねをして取りきめるべきものではありませぬ。一度約束をした人だからというような、世間的な考えに煩わされることは、最も忌むべきことです。
くれぐれも、あなたをほんとうにわかってくれる人、あなたとほんとうに性の合った人と、なにとぞ一生をともにして下さい。それが、あなたの一番ほんとうに生きる道です。

一粒の麦、
地に落ちて死なずば、
唯一つにて在らん、
もし死なば、
多くの果（み）を結ぶべし。　　　　　　　　（新約聖書　ヨハネ伝　第一二章　二四節）

　”生者必滅会者定離”　　　生きてる者は必ず死ぬ、会った者は別れる。

生は永久の闘いである
自然との闘い、社会との闘い、他の生との闘い、
永久に解決のない闘いである。

闘え。
闘いは生の花である。
みのり多き生の花である。

　こういうところにも、エンショウ（漢字がないため）の性格は出ている。何事にも煮え切らないのである。戦に対して、彼自身の独創と信念が少しもない。
　ただ彼は、父祖代々の名門と遺産と自尊心だけで将士に対していた。
彼の儀容風貌もすこぶる立派なので平常はその欠陥も目につかないが戦場となると、遺産や名門や風采では間に合わない。
”ここでは人間の正味しかない。””人間の正味そのものしかない。”
総帥の精神力による明断や予察が実に全軍の大きな運命を動かして来ることになる。

　さてさて、鈍物という者は仕方がないものだ。機に応じ変に臨んで処することを知らん。
下手に戦うなと云えば、十年でも動かずにいる気であろうか。曹操自身、軍にあるものなら百里も敵と隔てたまま、八月以来の長日月を無為にすごしているわけはないとかえって敵が怪しむであろう。

「勝敗は兵家のつね。人の成敗みな時ありです。・・・・・時来れば自ら開き、時を得なければいかにもがいてもだめです。長い人生に処するには得意な時に驕らず、絶望の淵にのぞんでも滅失に墜ち入らず―そこに動ぜず溺れず。出処進退、悠々たることが難しいのではございますまいか。
　関羽は、しきりと言葉をつづけた、ひとり玄徳の落胆を励ますばかりでなく、敗滅の底にある将士に対して、ここが大事と思うからであった。

　彼はふと、乾き上がっている河州の砂上を見まわして、―『ごらんなさい』と指差して云った。「そこらの汀に、泥にくるまれた蓑虫のようなものが無数に見えましょう。虫でも藻草でもありません。泥魚（でい）という魚です。この魚はよく処世を心得ていて、旱天（ひでり）がつづき、河水が乾（ひ）あがると、あのように頭から尾まで、すべて身を泥にくるんで、幾日でも転がった儘でいる．餌をとる鳥にも啄ばまれず、水の干た河床でもがき廻ることもありません。―そして、自然に身の近くに、やがて浸々と、水が誘いにくればたちまち泥の皮を剥いで、ちろちろと泳ぎだすのです。ひとたび泳ぎ出すときは、彼等の世界には俄然満々たる大江あり、雨水ありで、自由自在を極め、もはや窮することを知りません。・・・・・実におもしろい魚ではありませんか。
　泥魚と人生―。人間にも幾たびか泥魚の隠忍に倣うべき時期があると思うのでございます。
　関羽の話に人々は現実の敗戦を見直した。そこに人生の妙通を悟った。

　道をあきらかにする、これは大きな行動のまえに大切な事にはちがいない。

　劉璋は笑って「そういちいち人を疑っていたら、人の中には住めまいが」
　彼自身云うが如き好人物であった。もし庶民のあいだに生まれていたら、少なくも家産はつぶしひとにものべつ欺されていたろうが,その代わりに、（彼はよい男だよ）と愛されもしたろう。
　けれど、蜀の主権者であり万民に臨む太守としては、殆ど、その資格なきものといっていい。

　祭りの犠牲（にえ）　――　思い当たることがある。
　むかし、某（ある）君が、荘子を召抱えたいと思って、使者をさしむけたところ荘子は、その使いに答えて曰ったという。
（子（し）よ、犠牲になる牛を見ずや。首に錦鈴を飾り、美食を飼わしているが、曳いて大廟の祭壇に供えられるときは、血をしぼられ、骨を解かれるではないか。）

「疎きは親しきを隔つべからず、新しきは旧きを離間すべからず。」

　馬超に従う面々は、随所にその姿を没し、彼はいつか、ただ一騎となっていた。
「近づいてみろ。この命あらん限りは」
　鑓は折れたので,疾うに投げ捨てている。敵の矛を奪って薙ぎ、敵の弩弓（いしゆみ）を取って撲りつけ、馬も人も、さながら朱で描いた鬼神そのものだった。
――が、いくら馬超でも、その精力には限度がある。もうだめだと、ふと思った。（もうだめ）―それをふと、自分の心に出した時が、人生の難関は、いつもそこが最後となる。
「くそっ、まだ、息はある。」
　馬超は気づいて自分の弱音を叱咤した。そして又、目にも身余る敵軍に押し揉まれながら、小半刻も奮戦していた。

　曹操のまえでは、あのように不遜を極めた張松も玄徳のまえには、実に謙虚な人だった。
　人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものと云えよう。

　その頃、頴川の大儒石韜は諸州を遊歴して荊州に来ていた。
　由来、荊州襄陽の地には、好学の風一が高く、古い儒学に対して、新しい解義が追求され、現下の軍事、法律、文化などの政治上に学説の実現を計ろうとする意図が旺（さかん）であった。
　林泉あるところ百禽集まるで自然、この地方に風を慕って来る学生や名士が多かった。頴上の徐庶、汝南の孟建なども、その輩（ともがら）だった。
　叔父の玄を亡（うしな）い、頼る者とてなく,年少早くも世辞の辛酸を舐めつつあった孔明が初めて石韜の門をくぐって、『学僕にして下さい』と、訪れたのは、彼が十七の頃だった。
　石韜は翌年、近国へ遊学にあるいた。その時、師に従って行った弟子の中に、白面十八の孔明があり、一剣天下を治むの概を持つ徐庶があり、また温厚篤学な孟建がいた。
　だから、孟建や徐庶は、孔明よりずっと上だし、学問の上でも先輩であったが、ふたりとも決して、孔明を侮らなかった。
「あれは将来、ひとかどになる秀才だ。」
と、早くも属目していたのである。ところが、それは二人の大きな認識不足でだった。
　なぜならば、その後の孔明というものは、ひとかどどころではなかった。石韜を繞る多くの学徒の中にあって、断然､群を抜いていたし、その人物も年ととるほど天質をあらわして、いわゆる世間なみの秀才などとは、まったく型がちがっていた。
　だが、彼は、二十歳を出るか出ないうちに、もう学府を去っていた。
”学問の為にのみ学問する”学徒の無能や、論議のために論議のみして日を暮らしている曲学阿世の仲間から逃げたのである。
　では、それからの彼は、どうしていたかというと、襄陽の西郊にかくれて、弟の均と共に、半農半学者的な生活に入ってしまったのだった。
晴耕雨読――その文字どおりに。
「いやに老成ぶったやつではないか」「いまから隠棲生活を気どるなんて。」「彼は形式主義者だ。」「衒いに過ぎん。」
　学友はみな嘲笑した。多少彼を認め尊敬していた者まで、月日と共にことごとく彼を離れた。
　ただ、その後も相かわらず、彼の草盧によく往来していたのは、徐庶、孟建ぐらいなものだった。

”Ｏｎｃｅ，ａｎｄ　only　ｏｎｃｅ，ａｎｄ　ｆｏｒ　ｏｎｅ　ｏｎｌｙ”
『一度、ただ一度、そして　ただ一人の人に』

『しかも人知のあらゆる無用なる活動のうちで、おそらくもっとも悪いことは、これら不必要な苦悩について、くだらない弁解的な解釈を試みることである。われわれは、そんな苦労は取りのけられるものだなぞと、ただ言いわけばかりいっていてはならない。われわれは進んでそれを一掃すべきである。こぼれた牛乳について、理屈で慰安を求めようとするよりは、ひっくり返らないビンを工夫するほうが、はるかにまさっている。』

　しかし允子は、どんな扱いをされようとも、「こんなことなら、やっぱり早いうちに始末をしてしまえばよかった。」なぞとは決して思ったことがなかった。ただ侮辱を受けるたびに、内村鑑三氏の本か何かで読んだ「ひとりのばか者の常にわが身につきまとうあり、その名を称して正直という。」という古いことばをいつも思いだした。

　さきほどはお礼のことばも申しあげず、申しわけありません。お別れしてから兄にひどくしかられました。わたくしのようなものはないといって。兄のいうことは一つ一つもっともです。でも、かじかんだ心――あなたはそれをわかってくださると思います。あなたは雪の中に長く立っていた経験はおありになりませんか。そしてそのあとで、たき火にあたったことはおありになりませんか。そういう時ひえきった手あしは、なかなかあったまるものではありません。暖かいもののそばに行くと、はじめはかえって痛いんだか、あついんだかわからなくなって、口をきくことさえできないものです。わたくしの場あいもそれです。幾にちもあんまり冷たいもののあいだにばかりいたものですから、あなたのあたたかいお心づくしも、すぐにはからだに感じなかったのです。いいえ、痛いほどによく感じているのですが、ことばが出なかったのです。どうかわたくしの不作法をおゆるしください。
　それにわたくし今まであなたを誤解しておりました。誤解というよりも、あなたの心をわかろうとしていなかったのです。たき火に手を出そうとさえしなかったのです。しかし、あったかいものはいつか身にしみます。わたくしのかじかんだ心も今度は随分ゆるんでまいりました。いずれ兄とお伺いしたいと存じますが、取り急ぎお礼やらおわびやら申しあげます。帰ってすぐ筆をとりましたので文意がごたごたしております。ご判読ください。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　允子
　　　　　　　　　　公荘　徹爾　様

　「人、その友の為に命を捨つる、是より大いなる愛はなし」と聖書にも書いてあります。自由だの平等だの権利だのと、世間の女たちはなぜそんなに低俗なごみごみした所で生きているのでしょう。それは愛情の美しさ、愛情の本当の尊さ、愛情の本当の味わいを知らないからです。私の眼からはそういう（新しき女性）たちが、何だかお気の毒に見えます。みんな中途半端なところで生活していて、人間の魂の本当の輝きを見出してはいないように思われます。
　私が良人のために多くの犠牲を払ったのが愚かしいと園子は言うかもしれない。でも、その言い方も何だかおかしい。良人の為に犠牲をはらったということは、私がそれだけ損をしたということでしょうか。それが損だと考えるならば、夫婦関係は取り引きにすぎない。私はもっと、利害打算を超えた愛情まで行きたかったのです。

お前は自分の純潔さを楯にとって相手の不潔な行いを責めているけど、純潔さはお前ひとりが心の中でひそかに誇りとすべきものであって、相手を責める責め道具に使ってはなりません。

　真崎東天は、三四郎を大きな眼で睨みつけた。
「うむ、いい眼だ。ものになっておるぞ。君の死生の悟りはなんだ。」
「そんなものはありません。ただ、いつでも死ねるつもりです。」
　東天は依然として彼から眼を離さなかった。
「嘘だろう、姿君」
「どうしてでしょう」
三四郎は胸を衝かれたかたちであった。
「君は悩みがあるぞ、はははは、その煩悩が君を死なせんよ」
「そうでしょうか」
　彼の今日までの生き方は己と戦うことに終始した。あるがままの自己の欲望を殺すことに終わって来た。そのような生き方の正、不正が現在彼の心に溢れていた。乙美が恋しければ彼女の許へそれを訴え、その恋を完成すればよかった。それの出来ない自分の生き方のなかにどうにもならぬ不自然を感じて来たのである。
「人生を気取っちゃいかん。煩悩即菩提だ。煩悩そのものが人間だろう。煩悩そのものが悟りだ。ことさらに悟りと迷いの二つに分けてかかるのがそもそも迷いだ。・・・」

　夜、不意に尋ねて来た三四郎を怪しみもせず、無沙汰の詫びもきいているのか、いないのか、一向に判断のつかない顔で、自在鉤のかかった炉の火をしきりに掻き立てていたさいづち和尚が顔を上げて
「寒いのう、三四郎」
と言った。昨日も今日も会っているような口のきき方である。
「夏時分に一銭蒸気のなかで新関に会いました。お澄さんと一緒でした。」
「虎之助か。はは、あれは立派な奴よ。女に惚れて、わしに習字を習うのを忘れくさった。わしの顔より女の顔の方が綺麗だから仕方もなかろうが。しかし、まぁ、女にも惚れきれんような小さな肝っ玉ではなにも出来んでな。」
　和尚は半分を三四郎に言ってるらしい。
「鶯が死んだそうですな。」
「鼠に足をやられての、庭に埋めてやったが、地面の下では啼かぬらしい。」
「和尚、今夜、僕は絋道館を時分で破門して来たんです。自分でこの札をはずして来た。」
「お前が絋道館を破門したような言い方だの、悪い癖だ。一体、何をした。」
「道場の掟を破って、毛唐と新富座で試合をした。入場料を取る見世物です。今年の春、横浜で一心流の柔術家がやられた時に僕はそこに居合わせた。僕を選んだ奴等は、柔道が毛唐の拳固にかなわないから断るのだろうと言った。日本の武道は奴等にわからない。わからないままに済ましておくか、わからしてやるか、僕は迷った。僕がやらなくても、又、他の柔術家が金にひかれてやるに違いない。そう思って試合をした。誰にも黙ってやったが、絋道館を破門されるのがつらいから自分から札をはずして来たんです。」
「ほう、たったそれだけか。」
さいづち和尚は鉄瓶の湯を湯呑に注いで飲んだ。
「お前は馬鹿だから形の上で掟を破った事ばかり気を取られているな」
「掟は掟だ、和尚」
「武道の意地じゃろ、お前の心持は柔道の掟を破っていまいが。それが堂々とやれなかったところにお前の足りなさがある。」
「先生は許してくれないと思う」
「道のための形は道のために崩れても構わぬじゃろ。矢野さんが形だけで、愛弟子を破門すると思うか」
「僕にはわからんが、先生に申し訳ないと思う」
「お前の去るのはよかろうが、お前の名札は絋道館を飾っていた方がいい。どうだ、三四郎、その札をもう一度懸けて来い。」
「駄目だ」
「懸けていいと悟れたら今日でも明日でも、十年でも二十年の後でも懸けに行くがいい」
　風の音が止んで、しんしんと迫る夜寒が膝元から這い上がって来る。雪になるのかも知れぬ。うめ掘のこの辺りはなんの物音もしなかった。
「眠くなった。三四郎、もう帰れ」
沈黙の中で、ぽつりと和尚が言った。
「泊めて貰う」
三四郎がそう言った時に、和尚は射すくめる鋭い眼で彼の眼を睨んだ。
「死ににゆくな、三四郎」
とみに、三四郎は返事がなかった。
「今、お前は死ぬことばかり考えているな。死相じゃ」
三四郎は声もなく俯向いた。
「今度はなにと試合うな」
「唐手・・・・・・」
「負けじゃ」
「覚悟している」
「はははは、馬鹿奴（ばかめ）、初めから死ぬ気でやれば業もなければ知恵も死ぬ。
死ぬことに心を止めては終いじゃ。三四郎、心を何処にも置くな。そんな、こちこちした心境で勝てるか。心を止めるな、移すな、置くな、三四郎、それが成らずば、心をわしの懐に置いて行け」
「和尚」
三四郎の眼に涙がにじんだ。
「春風のように柔らかく自在になっての、心をわしの懐に置いて空身で行けよ、よいか。
大分夜も更けた。まず眠ることじゃ。」

シェークスピアはその喜劇『十二夜』のなかでいっている。
―――　”存在している、ということ、それこそが現実なのだ。”

「人が自分の人生の計画を考えているときにふりかかってくるもの、それが人生である」

■みんなが愛情を求めている
　他人を批判する態度も親近感を疎外する因子である。人に対して、その人柄以上のものを求めたり、頭脳明晰、まじめさ、高潔など、なんによらず、もっともっと高い水準を要求すると、つきあいがうまくいかなくなる。
　こんな”もっと、もっと”という高望みを捨てて、人は誰でもありのままの姿でいればいいのだ、ということを頭に入れておけば、人びとのすぐれた天は評価し、あまり感心できない点があっても目をつぶってやることができるようになる。世の中に完全な人物がふえるのを待つ、というのであれば、それこそ、いつまで待っても無駄である。待っている間に、楽しみも、息抜きも、互いに経験を分かち合うことによってだけ得られる報いも失われてしまう。
　これらを失うことは、バーン・アウトの重要な原因で、ことに報いは努力に比例して得られるものである。という誤った考えを持っている人は病気を悪化させやすい。相応の報いが与えられないといっても、実は本人が不足だと思っているにすぎない場合がある。このことについては、さきに副社長の地位にも、ブロードウェイでの初演にも満足を覚えなかった二人の人物の例をあげて厳しく批判した。どちらの例も世間的には恵まれた話である。いったいなにが不足しているというのだろうか。
　この本で今までに読んだバーン・アウト患者やあなたが実際にあったことのある患者のことを思い出してみよう。そうすると彼らはとにもかくにも、孤独な人間であると位置付けることができると思う----一人ぼっちの人間で心を開かず、他の人びとを寄せつけないために垣根をめぐらしてもいる。だから、どんな報いがあっても、喜びを分かち合える人が居ないから、孤独でむなしい。同じ報いでも、誰かと一緒に喜び、誇りを分かち合うことができれば実際よりも大きく思われるものである。
　愛情に満ちた人間関係が信金かにとって理想の舞台であることはいうまでもない。しかし、人生はいつでも、そんな人間関係に恵まれるとは限らない。ところが親近感と結うjん関係とは誰でも享楽することができる。どちらの萌芽も人びとの心の中に潜在している。
　人と近づきになりたいと願っている人は多い。親近感を求めているのは、私たちだけではないということを念頭におけば、気楽に人に近づくことができるであろう。ほとんどの人が親近感を求めているのだが、自らつくった障害物を克服することができる。エネルギー、喜び、生気などの大きな報酬をもたらしてくれるものは、努力である。
私は、このことをとくに強調しておきたい。

■親近感の代用品としてのセックス
　親近感は、探しかたさえ正しければ、それこそどこでもでも手に入れることができる。親近感とは、セックスの相手に限って打ち明けるというようなものではない。矛盾しているように思われるかもしれないが、実のところ、セックスは親近感の土居用品として使われる場合が多い。
　親近感や愛情のかけらもない性的な関係がはびこっている現代社会では、人びとは心を開き広げるよりは、衣服をぬいで裸になるほうがずっと気楽だという。一緒に寝ても、お互いの考えも希望も、また心の傷も分かち合おうとはしない。セックスは愛情の延長でもなければ表現でもない、ただの代用品にすぎない。
バーで出会って、一緒に帰宅して一夜を過ごす人たちがいると聞いているが、ほんとうの交わりが育つはずがない。グループセックス、公共の場所でのセックス、のべつまくなしの乱交----どれをやってみても愛情が生まれるはずがない。
　一夫一婦制を守っている人たちでさえ意義のある交わりを保つためには、お互いに信頼し合い、相手の話を聞き、自分から話しかけ、お互いの考えをはっきりさせて分かち合うなどの努力をすることが必要なのである。
　もちろん、セックスにはいろいろの効用がある。しかし、いつも愛情のないセックスを繰り返している人たちは、セックスが与える最高の恩恵にあずかれないどころか、バーン・アウトになる資格を手に入れることになる。

■「豊かさ」がもたらす社会の矛盾
　また同時に、現代社会は、目先の実現できない夢を追い回している。このため、伝統はむしばまれ、人びとを支えている機構は消え去り、少数グループはバリケードにたて込もり、人間関係は薄らぎ、バーン・アウトになるお膳立てができつつある。社会は、台頭しようとしているグループに対してさまざまなメッセージを贈る。女性、ゲイ、異種民族などに、一般国民と同じ権利や特典を享受すべきである、というメッセージをわれわれは贈りながら、一方では子どもを連れて郊外に移住している。”機会均等主義の雇い主”として自己を売り込みながら、同じ仕事に対して不平等な給料を払っている者もいる。約束を買い、その約束を当てにして期待をかける人びとにとって、作り話と現実の矛盾ほど心身を荒廃させるものはない。
　今日、バーン・アウトが蔓延しているが、その原因は社会にこの種の矛盾があふれているという事実に負うところが多い。
　１９２９年の大恐慌によって深刻な影響を受けた世代にとっては、貧困は最大の悪霊であり、それに続くはずの好況に自分たちと子孫にとっての万能薬としての期待を寄せた。いまや人びとは富み栄え、彼らの家庭は、かつて経験したことのないほど充実した生活をおくっている。しかし、私たちの生活は質的にはたして向上しただろうか。富裕な生活は、物質的な満足のほかに、いったいどれほど私たちに貢献したであろうか。
　ある意味では、返事はノーであり、実のところ、むしろ剥奪された、といってもいい。家族の全員がそれぞれ稼いできて、つぼにお金を投げ入れなければ食っていけなかったころは、多少の不平不満はあったかもしれないが、それぞれの者が必要な人間であるという存在感があった。十歳になる息子は、放課後の望切れ野球のゲームをあきらめて、使い走りして何セントかを稼いだし、十代の娘は、働きに出る母親に代わって家を守り、自分も家族の幸福のために必要な人間である、ということを心得ていた。彼らは、今日の多くの甘やかされた子どもたちとは違って、なんの目的ももっていない空しさなど感じたことがなかった。
　また、家庭からぜいたく品がほとんど姿を消したときでも、なんとか手に入る少量のもので楽しんだものである。いまでは、どんなぜいたく品もあたりまえのものになってしまっている。もし、かりに、自動温度調節装置のスイッチを切って、もうこれからは甘やかさないからね、とか、これからは不便もがまんするように、などといわれると、私達はすぐに不満顔をするだろう。小さな楽しみを味わう能力は退化し、それとともに、報いに対する認知力も退化していった。
　日常生活のなかに小さな満足が欠けると、心の底に不満がわだかまり、大きな報いを夢見てさまよい歩くようになり、バーン・アウトに感染しやすい状態となる。ここに、私たちの目に見えないわなが待ち伏せをしている。----すぐ先の街角を曲がったところには、もっと大きいものがあるかもしれない、と期待してもはたしてそんな大きなものがありえるのだろうか。現代のように騒然とした世の中で、祝福を数え上げるのはいかにも楽天的すぎると思われるかもしれない。
　しかし、バーン・アウトに対する予防接種として最も有効な手段の一つは、身の回りに起きる、あまり目立たないがうれしい事に目をとめるか、あるいはそういうものを育てる習慣を身に付けることである。最初は意識して努力しなければならないかもしれない、というのは、私たちは、ちょっとした利点に目をつけて人生を見つめる習慣をなくしてしまっているからである。こうした努力にこそ価値があることがやがて証明される。身の回りにある小さな報いが積み重なって、やがて大きな報いとなるのである。

幸いなるかな、独りありて
今日をわがものと言いうる人は、
心安らかに　こう叫ぶ　―
「明日よ　あらん限りの悪をなせ　われすでに今日を生きたり」

　　　備）この詩はキリストの生誕より三十年前にローマの詩人ホラティウスが書いたものである。

　しかし、今までの経験というものは、広いようで、その実はなはだ狭い。ある社会の一部分で何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持っていくと、まるで通用しないことが多い。前後の関係とか四囲の状況とかいったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮をめぐらさなければ役に立たなくなる。しかも、それをめぐらす時間も、材料も充分給与されてうない場合が多い。
　それで、私はともすると事実あるのか、またないのだかわからない、きわめてあやふやな自分の直覚がはたして当たったか当たらないか、要するに客観的事実によって、それを確かめる機会を持たない事が多い。そこに、また私の疑いが始終靄のようにかかって、私の心を苦しめている。

　私は四十四年に二十七歳でチームの監督になり、再建をまかせられたんですが、一度だめになったチーム、実績のない集団というものが、いかに認めてもらえないものか、見向きもされないないものか、いやというほど知りました。チームを強くするためのいろいろな要望をきいてもらえない、バックアップも受けられないという状態でしたが、”くそ、今に見とれ、だれの助力もなしにもう一度やってやる。”という気持ちで頑張ったんですよ。
　落ち目になるとすぐ背を向ける、良し悪しは別にして、これが社会のありのままの姿なんだということを身をもって知りましたね。だからこそ王者であらねばならない、王者であり続けなければならない、そのためには何よりも厳しさが必要なんだということです。それが、その集団を守ることになるんです。非常によい勉強になりましたね。
　実際にチームを作り直すにあたっては、やはり即戦力になる選手がほしかったんですが、大學の有名選手は、見向きもしませんでしたね。高校でも有名選手はだめですよ。だから、無名の高校選手をひっぱてきて、自分で育てようと思い直しました。大学出の有名選手や、オリンピック選手を追い抜こうじゃないか、俺がちゃんと教えてやる、ただし、そのためには、彼らの三倍も四倍も練習しなきゃならないぞ、っていうことでね。その頃から、まったく一日も休みなしの練習が四年間続きました。

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　すばらしい目標があればこそ、人間はガマンができるんじゃないでしょうか。目標のない人間には迫力がないし、簡単な目標はあまりファイトを生まない、といったことは、一般的に言えると思います。目標が困難であればあるほど、そして目標達成の願望が強ければ強いほど、ファイトが生まれます。私たちの場合、どん底から日本一にはい上がろう、二束三文といわれている我々のチームが、日本一といわれる鋼管、松下といったチームを打ち破ろうということが全員の目標だったわけで、これに青春をかけようじゃないかということでがんばれたんですよ。
　一般的に言って、目標設定が理解できない人間、願望が弱い人間、自負心が弱い人間、あるいは逃げるスキがある、つまり、俺には他にもやることがあるさと思いがちな人間、こういうタイプの人間は、いかに人柄が良くても、また技術的にすぐれたものを持っていても、ナンバー・ワンの集団のメンバーになる要素がないじゃないかと、私は思います。

　しかし、魚津はその時、彼が三十二年の生涯で、今までに一度も感じなかった孤独の時間の中にいたのである。周囲の誰にも理解されない時間の中に身を置いていたのである。
魚津は思う。
　いま自分の周囲に居る人たちに事件を報告したら、人々は誰も小坂の死を理解しないに違いない。人々は言うだろう。なぜ、そんな雪に覆われた高い山の中へ出掛けて行ったのだ。危険なことは初めから判っているじゃないか。
　しかし、おれたちはそれをしなければならなかったのだと、魚津は思う。人々は生きている間、どのようなことをしてもいいじゃないか。おれたちは誰もあの前穂の東壁で登っていなかったら、そこを登ろうとしたまでのことだ。それが一文にもならないことだから、それが生命を賭けるような危険を伴う仕事だったから、それが雪と岩と自分の意志との闘いだったから、おれたちは敢えてしようとしたのだ。ダンスをする代わりに、マージャンをやる代わりに、映画を見る代わりに、おれたちは雪の岩場を攀じ登ろうとしたのだった。

「とにかく、話すことは不賛成ですね。貴女と小坂とのことは、僕と貴女以外、誰も知らないんです。小坂のためにも、御自分のためにも、それを口外することはよくないでしょう。それを話したいというのは、貴女のエゴイズムですよ。貴女の気持ちはそれでおさまるでしょうが、誰も、そのことを喜びはしないでしょう。」

「年齢というものには、元来意味はありませんよ。これは私の持論なんですが、若い生活をしている者は若い。老いた生活をしている者は老いている。――こう私は考えます。若くても老いた生活をしている者もあれば、年老いて若々しい生活をしている者もある。・・・

　先生がおっしゃった。「古いことをもう一度検討し直して、新しい事実に向かいあえば、必ず他人に学ばせることができるだろう」

　孔先生がおっしゃった。「他人が自分を知らないといって悩むことはない。それよりも自分が他人を知らないことを心配すべきだ」

　先生がおっしゃった。「地位が得られないことを気にかけるよりも、その地位に相応しい実力のないことを反省しよう。自分を認める人がいないと言って嘆かずに、人に認められるような実績をつくるように努力しよう」

　先生がおっしゃった。「人間は信頼がなければ何をやっても駄目だ。人間に信頼がないということは、まるで牛車に轅の横木がなく、馬車に轅のくびき止めがないのと同じで、逸る牛や馬の首を押さえて走らせることはできない」

　後悔は何の益（やく）にも立たなかった。丑松は恥じたり悲しんだりした。噫数時間前には弁護士として一緒に談しながら扇屋を出た蓮太郎、今は戸板に載せられてその同じ門を潜るのである。不取敢（とりあえず）、東京に居る細君のところへ、と丑松は引受けて、電報を打つ為に郵便局の方へ出掛けることにした。夜は深かった。往来を通る人の影も無かった。是非打とう。局員が寝ていたら、叩き起こしても打とう。それにしてもこの電報を受け取る時の細君の心地（こころもち）は、と想像して、さあ何と文句を書いてやって可（いい）か解らない位であった。暗く寂しい四辻の角のところへ出ると、頻に遠くの方で犬の吠える声が聞える。
　その時はもう自分で自分を制（おさ）えることが出来なかった。堪え難い悲傷（かなしみ）の涙は一時に流れて来た。丑松は声を放って､歩きながら慟哭した。
　　　　　　　（四）
　涙は反って枯れ萎れた丑松の胸を湿（うるお）した。電報を打って帰る道すがら、丑松は蓮太郎の精神を思いやって、それを自分の身に引比べてみた。有のままに素性を公言して歩いても、それで人にも用いられ、万許されていた。「我は穢多（えた）を恥とせず」----何というまぁ壮んな思想（かんがえ）だろう。それに比べると自分の今の生涯は----
　その時に成って、始めて丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽（かく）そう隠蔽（かく）そうとして、持って生まれた自然の性質を銷磨（すりへら）していたのだ。その為に一時も自分を忘れることができなかったのだ。思えば今までの生涯は虚偽（いつわり）の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ----何を思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。

　聞くともなしに丑松は人々の噂を聞いて、到底誤解されずに済む世の中では無いということを思い知った。「黙って狼のように男らしく死ね」----あの先輩の言葉を思い出した時は、悲しかった。

　　　　　　　（五）
「むむ、勝野君は巧いことを言った」とこう丑松は言出した。「あの猪子先生なぞは、全く君の言う通り、一種の狂人（きちがい）さ。だって、君、そうじゃないか----世間体の好いような、自分で自分に諂諛（へつら）うようなことばかり並べて、それを自伝と言って他（ひと）に吹聴するという今の世の中に、狂人ででも無くて誰が冷汗の出るような懺悔なぞを書こう。あの先生の手から職業を奮取（うばいと）ったのも、ああいう病気に成る程の苦痛（くるしみ）を嘗めさせたのも、つまりこの社会だ。その社会の為に涙を流して、満腔の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛れるまでも思い焦がれているなんて----こんな大白痴（おおたわけ）が世の中に有ろうか。ははははは。先生の生涯は実に懺悔の生涯さ。空想家と言われたりして、甘んじてその冷笑を受けている程の懺悔の生涯さ。『どんな苦しい悲しいことが有ろうと、それを女々しく訴えるようなものは大丈夫と言われない。世間の人の睨む通りに睨ませて置いて、黙って狼のように男らしく死ね。』----それが先生の主義なんだ。見給え、まぁ、その主義からして狂人染みてるじゃないか。ははははは。」
「君はそう激するから不可（いかん）」と銀之助は丑松を慰撫（なだめ）るように言った。
「否、僕は決して激してはいない」こう丑松は答えた。
「しかし」と文平は冷笑（あざわら）って、「猪子蓮太郎だなんて言ったって、高が穢多じゃないか。」
「それが、君、どうした」と丑松は突込んだ。
「あんな下等人種の中から碌なものの出よう筈が無いさ」
「下等人種？」
「卑劣（いや）しい根性を持って、可厭（いや）に僻んだようなことばかり言うものが、下等人種で無くて君、何だろう。下手に社会へ突出（でしゃば）ろうなんて、そんな思想（かんがえ）を起こすのは、第一間違さ。獣皮（かわ）いじりでもして、神妙に引込んでるのが、丁度あの先生なぞには適当してるんだ」
「ははははは。してみると、勝野君なぞは開化した人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言うのだね。ははははは。僕は今まで君もあの先生も同じ人間だとばかり思っていた」
「止せ。止せ」と銀之助は叱るようにして、「そんな議論をしたって、つまらんじゃないか」
「いや、つまらなかない」と丑松は聞き入れなかった。「僕は君、これでも真面目なんだよ。まあ、聞き給え----勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ、下等だと言われたが、実際御説の通りだ。こりゃ僕の方が勘違いをしていた。そうだ、あの先生も御説の通りに獣皮いじりでもして、神妙にして引込んでいれば好いのだ。それさえして黙っていれば、あんな病気なぞに罹りはしなかったのだ。その身体のことも忘れてしまって、一日も休まずに社会と戦っているなんて、----何という狂人の態（ざま）だろう。噫、開化した高尚な人は、予じめ金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事している。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞはそんな成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上っているのだ。その慨然とした心意気は----ははははは、悲しいじゃないか、勇ましいじゃないか」
と丑松は上歯を顕して、大きく口を開いて、身を慄（ふる）わせながら欷咽（すすりな）くように笑った。鬱勃とした精神はからだの外部（そと）へ満ち溢れて、額は光り、頬の肉も震え、憤怒と苦痛とで紅く成った時は、その粗野な沈鬱な容貌が平素よりも一層男性（おとこ）らしく見える。銀之助は不思議そうに友達の顔を眺めて、久し振で若く剛（つよ）く活々（いきいき）とした丑松の内部（なか）の生命（いのち）に触れるような心地（こころもち）がした。

　「腫物を切開するときには、思いきって､一遍にやるものだ、なし崩しにやっても痛みが減りはしない、恥ずかしいおもいも一遍にしてしまえ、そうすればさっぱりする」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　−葦は見ていた−

　どんな過でも、この世で取り返しのつかぬことはない。人間はみな弱点を持っている。誰にも過失はある、幾度も過を犯し、幾十度も愚かな失敗をして、そのたびに少しづつ、本当に生きることを知るのだ。それが人間の､持って生まれた運命なのだ。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　−五月雨日記−

「世の中はどっちにまわっても苦労なものだ、それならせめて自分の生きたいように生きてみたい、安楽や贅沢だけが最上のものじゃないからな」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　−野分−

　マタイ伝に曰く、（汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を与え、魚を求めんに蛇を与えんや）・・・・室井展子という女性はもしかしたら、全身全霊を以ってパンを求め魚を求めていたのに、桑野萬秋は彼女に石を与え、蛇を与えてしまったのではないだろうか。

　十三、四年前になる。その頃小学校六年生だった息子がＯ中学を受験すると突然言いだした。息子が希望するＯ中学校は、県内では最も競争率の高い、私立中学である。Ｏ中学の受験を希望する子供たちは、小学校二、三年生のころから、入試の準備をはじめるといわれている。塾通いはあたりまえで、塾にもＯ中学の入試に適、不適があるらしく、入学率のいい塾を選ばなければならない。塾選びも六年生になってからでは無理で、息子の希望は、総てが出おくれの感があった。それにあと一校、これも難関といわれているＴ中学を受ける、という。いかに親馬鹿でも、止めたら?と足をひきたくなる。だが息子は、Ａ君が受けるから、僕も、と譲らない。息子が名指しでいうＡ君とは、学年でも首席にいる男の子である。Ａ君と息子は同じクラスで、クラス内の席次でいけば、次ぎの順位に息子はいるらしい。母親たちやクラスの仲間たちの下馬評でいうと、Ａ君は絶対に受かる、と噂されている。それならば僕だって、と息子は考えたらしかった。
　話を聞いていた息子の父親は、やってみるかとあっさり言った。
　願書受付の日、私は息子と共にＯ中学に行ってみた。Ｏ中学は下車から歩いて二、三十分はかかる人里はなれた林のなかにある。落ち葉が鳴る冬の林道を歩いて行くと、手つづきを終ったらしい親子づれに逢う。すれ違いざまに、おたがいに会釈を交わしながら、私は無意識のうちに、息子の競争相手になる子供たちを観察していた。どの子供も利発気にみえた。目の玉が輝いていて、唇がしまっている。少年らしい柔らかい頬をしていながら、各人が背筋に自信を持っている。
　負けた、と私は思った。息子も、少年たちの風格に押され気味でいるが、負けたのは、母親の私である。道ですれ違う母親たちは、連れている少年たち以上に自信を持っていて、立派に見える。
　優しく優雅にほほえむ態度は、完全に私たち母子をのんでいる。喩えは悪いが、充分に調整をおえた三歳馬のタヅナを引いて、レース当日の馬場をデモンストレーションする。調教師の自信に通じるものがある。負けた思いは、我が子を調教し得なかった母親失格で、同時に、試験を受けるのは息子たちなのだが、それ以前にＯ中学受験に適した子供を育てるのに該当する母親であるかどうか母親の段階で問われるべき問題点があることを知った。
　入学願書の手つづきを受けてくれたのは、外国人の神父さまだった。神父さまはエメラルド色の目で息子の顔をのぞいて、簡単な質問をする。横で、息子の答える態度を見ていると、林道で逢った少年たちのりりしさはないが、幼く、好もしくみえる。ひょっとすると神父さまも、こんな少年を教育してみたい、と思うのではあるまいか------。
　現実は厳しかった。というよりも当然の結果なのだ。父親と発表を見に行った息子は、目にうっすら涙をためて、だーめ、と言った。そう、と答える私の頬にも涙が流れた。出来ることならば、人生で最初に遭遇する希望の一歩を叶えてあげたかった。目的達成への努力不足の結果なのだが、幼い子供の目に涙をみるのは、つらい。失敗は一度でいい。Ｔ中学の受験は止めたら？と私は息子に言った。意外に、息子は涙を溜めた目で、受ける、と言った。落ちるかもしれないわよ、と残酷な言い方を私はした。それでも受けてみる、と息子が言った。
　そのとき父親が受けてごらん、とまた簡単に言った。二人になってから私は、また落ちるわ、刺激が強すぎる、と言った。父親はきっぱり、受けさせろ、と私に命令した。傷つくわ、と私は反対した。中途半端な傷で事をぼかさない方がいい、ここで止めると、受けていれば、という思いがあの子に残る、とことんまで自分の力を見極めさせるのがあの子のためになる、と父親は言い、受かるかもしれないしね、と笑った。
　結果は失敗に終った。二度の失敗を味わった息子は、今度は涙を見せなかった。逞しくなったのか、慣れただけなのか、あるいは傷を受けるには心身ともに弾力がありすぎるのか。予想したよりも息子は明るかった。父親は、やっぱり駄目だったか、できのいいのが多いね。と息子に言った。
　父親と息子の話を聞きながら、私は、息子の失敗に手ごころを加えなかった父親の態度に、かぶとをぬいだ。母親は、私だけかもしれないが、つい不憫になって、目的の中途で道をそらさせてしまう。傷を受けない道を、選ばせてしまう。むしろ失敗を知らせるために進ませる。失敗をみせながら、見ることによって、そこから立ち直らせる。半端な解決策は本人に甘さ、甘えを残すだけである。これが父親の持論だった。
　いいか、悪いかは、それぞれに賛否があるだろう。だが、承知しながら失敗に立ち向かっていかなければならないときはある。誰しも失敗を知るのはつらいし、私も極力目をそらして、楽な道を通っている。しかし、その結果は、不満足な結果で終る。失敗を怖れて曖昧に事を運べば、結果も曖昧で、そこからの進歩はない。立ち直りも望めない。生きている事実はそれ自体苦しく、不足だらけの毎日である。こんなはずではなかった、悲哀も生きているからこそ起こる。主婦ならば、朝、昼、晩の食事の味つけにも、こんなはずでなかった不満は、目的が失敗に終った結果にだけついてまわるわけでもない。
　初志の希望通りに事が運んで、満足な結果を得ても、満足の側面には、予期しなかった、あてはずれが出てくる。ただ目的が果たされているから、それほど気にならないだけで「こんなはずではなかった」繰り返しこそが人生だと思っている。
　極端な言い方をすれば、確実に「こんなはず」の結果が得られるのは「死」だけだろう。死こそ、こんなはずの必然なのだが、生きていたい願望を抱いてりる私たちにとっては、死ほど大きな、あてはずれはない。
　苦心惨憺、よかれと願って生きた最後が、死に集約される無、であるのならば、おのずから肚（はら）も決まってくる。叶えられなかった失望も微々たる茶飯事に思える。しかしやっぱり辛い。だが現実をさけてはならない。失敗を怖れてもいけない。それに失敗や落胆は、誰もが味わっている。自分一人ではない。現実を直視して、失敗の過程に、なぜ？を見つけ出せる冷静さを、私は持ちたいと願っている。

　人生にはどこかで、思いきって全てを賭けなければならない決断の時点がある。

　「自分の中に熱した部分があり、それをさらに乗り越えて、すべてをクールにみつめ、自己批判に徹し、綿密な計画を練るさめた部分がある。その両方が合わさって、初めて自信が生まれる。」

　船にはスクリューと舵の両方が必要である。

　自慰的な情熱は、しばしば人間をムキにさせ、ユトリをなくし、排他的にさせる。行為は情熱的に見えても、成果は姑息である。

　チャレンジとは、独自の“目標”に対する挑戦であり、他人との競争ではない。他人との競争意識が過熱すると、そこに気をとられ、目標そのももの達成のための精進にマイナスの力が加わる。そこに落とし穴がある。他人を意識し、自分との比較にあけくれ、嫉妬心が強まり、批判を気にする。つまり人間が防衛的になる。

　チャレンジは、その目標を自分自身の中に置くものである。目標達成に全力をあげていれば、他人との比較に注意を向ける余裕さえなくなるはずだ。

　敵にたいして心を静かに動かせ

　我身のひいきをするな----慢心は芸の止まり----

　いかでわれ、清く曇らぬ身となりて、心の月の影をみがかん